「無理や。ビートルズのレコードで、他人が弾くことはない。」
1968年9月6日。そう言うて断りかけた男が、その晩、スタジオでギターを弾きます。
曲は「While My Guitar Gently Weeps」。1968年の二枚組『The Beatles』、いわゆる「ホワイト・アルバム」に入っとる一曲です。
ほんで、その男の名前は──レコードのどこにも載りませんでした。
泣いとるみたいなギターを弾いたのは、クラプトン
作曲はジョージ・ハリスン。1968年、二枚組のうちの一曲です。
途中から入ってくる、泣いとるみたいなギター。あれを弾いとるのが、エリック・クラプトンです。
頼まれたのは車の中。弾いたのは、その晩
1968年9月6日、サリーからロンドンへ向かう車の中。ハンドルを握っとったんかどうかまでは分かりませんが、その移動中に、ハリスンがクラプトンに頼みます。「弾いてくれへんか」と。
クラプトンの返事が、これでした。
無理や。ビートルズのレコードで、他人が弾くことはない。
言うとることは、もっともです。当時のビートルズが、どのくらいのものやったか。
- 全世界の総売上は推定6億枚以上。史上いちばん売れた音楽アーティスト
- 全米ナンバーワン・シングル20曲、ナンバーワン・アルバム19枚
- 1964年4月のある週、ビルボードHot 100に12曲を送り込み、しかもトップ5を独占した
クラプトンが弾くことになるホワイト・アルバムも、予約注文だけで200万枚以上。アメリカでは発売から1か月あまりで約400万枚売れとります。
この「12曲を送り込んで、トップ5を独占」を数えとったのが、ビルボードのHot 100です。当時その順位は、レコード店に電話をかけて聞いて作っとりました。→ 順位は、冷蔵庫で買えました──ビルボードチャートの九十年
そこへ、よその人間が入っていく。ためらうほうが普通です。
それをハリスンが説得して、その晩、クラプトンはギターを重ねました。
弾いたギターは、自分がハリスンに贈ったもの
ここ、私は調べとって「ええ話やな」と思いました。
クラプトンがこの日に使うたんは、ハリスンのギブソン・レスポール「ルーシー」です。ハリスンの持ちもんです。
ただ、そのギターは──少し前にクラプトンがハリスンに贈ったものでした。
自分が友だちにあげたギターを、その友だちの家で借りて、その友だちの曲を弾いた。ややこしいようですが、要するにそういうことです。
ハリスンは、この日のことをこう振り返っとります。クラプトンがおったおかげで、ほかのメンバーが「もうちょっと真剣にやろう」という気になって、いつになく行儀ようやっとったと。
外から一人入ってきただけで、部屋の空気が変わったわけです。
クレジットに、クラプトンの名前はなし
ところが、このギターを弾いた人間の名前は、クレジットに載っておりません。
意地悪でも、忘れられたわけでもありません。理由は事務的なものです。当時のレコード会社が、自社の契約アーティストがよそで仕事をするのを嫌った。それだけです。
もうひとつ、ついでに。この晩、ジョン・レノンはスタジオに来とりません。クラプトンは結局、「ビートルズ全員」と一緒に録音したことは一度もない、ということになります。
名前が載らんまま曲が世に出る。この人の周りでは、これがもう一回起きます。しかも18年後には、載せてもらえんかった側やのうて、載らん側を作るほうに回っとりました。→ 出せんかった曲を、別の男が世に出した──「Behind the Mask」と、クラプトンが二度やったこと
ほんで、ここからが妙なところです。
名前を載せてもらえんかったこの男は、6年後、まったく逆のことをやります。他人が書いた曲を歌うて、その曲を書いた本人を怒らせるんです。しかもそれが、彼の生涯で唯一の全米1位になってしまう。
その話は、こちらに書きました。→ ボブ・マーリーが書いた歌で、全米1位を取ったのは別の男だった──「I Shot the Sheriff」の話
覆い隠された側におった男が、今度は覆い隠す側に回っとる。順番としては、こっちが先です。
「Here Comes the Sun」は、クラプトンの庭で生まれた
1969年の春。ハリスンは、会社の会議をサボりました。
ビートルズは自分らの会社を持っとりました。アップル(Apple Corps)といいます。もとは税金対策で作った会社です。会計士に「200万ポンドある。事業に投資するか、税務署に取られるか」と言われて作った、という身も蓋もない出自です。
ところが会社ですから、当然、書類が回ってきます。ハリスンの自伝から。
アップルは学校みたいになっとった。行って、ビジネスマンをやらなあかん。「これにサインしろ」「あれにサインしろ」。……ある日、アップルをサボることにして、エリック・クラプトンの家へ行った。あの陰気な会計士どもに会わんでええ解放感は、それはもう素晴らしかった。ほんでエリックのアコースティックギターを一本持って、庭を歩き回りながら「Here Comes the Sun」を書いた。
ビートルズの最後のほうにしては、ずいぶん明るい曲です。あれは会社から逃げた日の歌やったわけです。
逃げ込む先が親友の家、というのがまた、ええ関係です。
──ところが、この庭には、もうひとつ話がついとります。
クラプトンが恋しとったのは、ハリスンの妻
ハリスンの妻は、パティ・ボイドといいます。1966年に結婚しとります。
そして、この家の主──クラプトンは、その人に恋しとりました。
報われん恋です。クラプトンはそれを曲にしました。最初はバラードとして書いたそうです。曲名の由来は、7世紀ペルシャの恋物語。12世紀の詩人ニザーミー・ガンジャヴィーの『レイリーとマジュヌーン』からとりました。
できた曲の名前が、「Layla」です。
つまり、1969年の春のあの庭では、こういうことが起きとります。
- 夫のほうは、会社から逃げてきて、太陽の歌を書いとる
- 家の主のほうは、その夫の妻に恋しとる
同じ庭で、です。
ハリスンが自分を呼んだ言い方は「義理の夫」
ここまで来たら、たいてい話は壊れます。ところが壊れませんでした。
ハリスンとボイドは1977年に離婚します。そして1979年3月27日、クラプトンとボイドが結婚しました。
ハリスンは、その結婚式に出席しとります。
しかも自分のことを、こう呼びました。
husband-in-law(義理の夫)
義理の兄弟(brother-in-law)をもじった造語です。妻を持っていかれた側が、自分でこれを言うとるわけです。
二人の付き合いは、そのあとも続きます。「Badge」の共作、いくつものレコーディング、ツアーでの共演。1990年代のはじめにも、二人並んで写真に写っとります。
1991年に受け止めたのは、ハリスンのほう
1991年のはじめ、クラプトンに、取り返しのつかんことが起きます。
4歳の息子コナーを、事故で亡くしました。
そのあと1年、仕事を休んどります。そして、気持ちをどこかへ向ける必要が出てきたときに、ハリスンにこう持ちかけました。ハリスンの回想です。
見てくれ、このあと俺は何もやらない。君が望むなら俺のバンドを使え。俺も一緒に行く。そのほうが君も楽だろう。
ここで大事なんは、誘われたハリスンのほうが、ツアーを嫌うとったということです。
ビートルズ時代に追い回された経験から、ツアーが好きやなかった。妻のオリヴィアも「ジョージはそれに向いていなかった」と言うとります。本人は1987年に「ツアーはしない」と明言しとりました。実際、1974年のソロツアーを最後に、17年間やっとりません。
それが、この誘いで動きました。
1991年12月、日本で12公演。ハリスンがリードを取り、バックはクラプトンのバンド。中盤の4曲は、クラプトンがリードを取る組み立てでした。
これが、ハリスンの生涯で2回目の、そして最後のソロツアーになります。
ハリスン本人は「最初の本番では多少の緊張があったが、緊張とアドレナリンのちょうどよいバランスやった」と振り返って、自分の最高の演奏のひとつやった、と言うとります。ついでに、このツアー中に煙草をやめました。「かなりええ経験やった」そうです。
息子を亡くした男が仕事に戻るために誘て、ツアー嫌いの男が17年ぶりに出た。受け止めたんは、ハリスンのほうです。
一周忌の日の追悼公演を組んだのは、クラプトン
ハリスンは2001年11月29日に亡くなります。58歳でした。
そのちょうど一年後──一周忌そのものの日です──ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで、追悼公演が開かれました。「Concert for George」といいます。
言い出したのも、音楽監督をやったのも、クラプトンでした。
未亡人のオリヴィア・ハリスンが、こう証言しとります。
あれはクラプトンの発案でした。ジョージが亡くなって間もない頃に電話をくれて、「何かしたい」と言ったんです。
出演は、オリヴィアと息子のダニ、ポール・マッカートニー、リンゴ・スター、クラプトン、ジェフ・リン、トム・ペティ、ビリー・プレストンほか。収益は、ハリスンが作った慈善財団へ渡されました。
そして、その夜の「While My Guitar Gently Weeps」が、これです。
歌とギターがクラプトン。ピアノとハーモニーがポール・マッカートニー。ドラムがリンゴ・スター。
1968年に、名前を載せてもらえんかった曲です。
それを34年後、その男が歌うとります。しかも弾くだけやのうて、歌うとる。作った本人が、もうおらんからです。
クラプトンは、あとになってこう言うとります。
二人の関係のなかで何度も、ジョージへの自分の気持ちを伝えるのが、とても難しかった。音楽家として、兄弟として、友人としての愛情を。
スコセッシが撮ったドキュメンタリーでは、この公演のことを「埋め合わせをしていた(making amends)」と言うとります。
34年で、受け止め合いが逆向きに三回
並べてみると、こうなります。
| 1968年 | 「他人は弾けん」と渋るクラプトンを、ハリスンが引き入れた |
|---|---|
| 1991年 | 息子を亡くしたクラプトンを、ハリスンが17年ぶりのツアーで受け止めた |
| 2002年 | ハリスンを亡くしたクラプトンが、追悼公演を組んで、あの曲を歌った |
受け止め合いが、逆向きに起きとります。
妻を持っていった男と、持っていかれた男です。普通なら、どこかで切れる話です。切れんかった。
クラプトンは「気持ちを伝えるのが難しかった」と言うとります。言えんかった代わりに、弾いとったんやと思います。1968年も、2002年も。
ついでに、もうひとつ。「名前が載らん」という出来事は、このあとも起きとります。1968年にモータウンと契約した五人兄弟を、実際に見つけたんは誰やったか。会社が世間に流した名前は、別人でした。→ 「もうええやないか」と「そこにおるよ」が、同じ年のチャートに並んどりました──1970年、ビートルズとジャクソン5
──ハリスンの話も、まだ半分も出とりません。「静かなビートル」と呼ばれた立ち位置のこと、1966年の武道館5公演のこと、ビートルズの曲がのちにマイケル・ジャクソンのものになったこと。それはまた、次の機会に。
参考文献
この記事の事実は、公開されとる資料で一つずつ確かめました。何をどこで確かめたかを、あわせて書いときます。URLは変わることがあります。
- While My Guitar Gently Weeps — Wikipedia……1968年9月6日にサリーからロンドンへ向かう車中でハリスンが依頼したこと、クラプトンの「ビートルズのレコードで他人は弾かない」という返事、レスポール「ルーシー」がハリスンの所有でありクラプトンから贈られたものだったこと、クラプトンが正式にクレジットされていないこと、ほかのメンバーが「もう少し努力し」「最良の状態を見せた」というハリスンの回想
- While My Guitar Gently Weeps: Guest Recording Session by Eric Clapton — Where’s Eric!(クラプトン公式ファンサイト)……この晩ジョン・レノンがスタジオにいなかったこと、クラプトンが「ビートルズ全員」と録音したことは一度もないこと、クレジットされなかった理由が当時のレコード会社の慣行であったこと
- The Beatles — Wikipedia……全世界の総売上が推定6億枚以上であること、全米ナンバーワン・シングル20曲・アルバム19枚、1964年4月にHot 100へ12曲を送り込みトップ5を独占したこと
- The Beatles(ホワイト・アルバム)— Wikipedia……予約注文だけで200万枚以上、アメリカで発売から1か月あまりで約400万枚売れたこと
- Here Comes the Sun — Wikipedia……1969年春にクラプトンの家(サリー州ユアハーストのハートウッド・エッジ)の庭で書かれたこと、アップルをサボった日のことだというハリスン自伝の言葉
- Apple Corps — Wikipedia……税金対策として設立されたこと、会計士から「200万ポンドを事業に投資するか税務署に取られるか」と言われた経緯
- Layla — Wikipedia……パティ・ボイドへの報われない恋を主題としていること、当初バラードとして書かれたこと、曲名がニザーミー・ガンジャヴィー『レイリーとマジュヌーン』に由来すること
- Inside the George Harrison, Eric Clapton and Pattie Boyd love triangle — Gold Radio……ハリスンとボイドが1966年結婚・1977年離婚、クラプトンとボイドが1979年3月27日に結婚しハリスンが式に出席したこと、ハリスンが自分を「husband-in-law」と呼んだこと
- George Harrison–Eric Clapton 1991 Japanese Tour — Wikipedia……1991年12月に日本で12公演おこなわれたこと、バックがクラプトンのバンドで中盤4曲をクラプトンがリードしたこと、ハリスン生涯2回目にして最後のソロツアーであったこと
- How Eric Clapton Convinced George Harrison to Come on Tour With Him in 1991……クラプトンが同年に4歳の息子コナーを亡くし1年仕事を休んでいたこと、「俺のバンドを使え。俺も一緒に行く」という誘い方、ハリスンが17年ツアーをしておらず1987年に「ツアーはしない」と述べていたこと、オリヴィアの「向いていなかった」という言葉、ツアー中に禁煙したこと
- The Story of George Harrison’s Last Tour — Ultimate Classic Rock……ハリスン本人の「緊張とアドレナリンのちょうどよいバランスだった」という回想
- Concert for George — Wikipedia……2002年11月29日にロイヤル・アルバート・ホールで開かれたこと(ハリスンの一周忌にあたること)、音楽監督がクラプトンであること、出演者、「While My Guitar Gently Weeps」をクラプトン・ポール・マッカートニー・リンゴ・スターで演奏したこと、収益の寄付先
- Eric Clapton Felt Compelled to Organize Concert for George — Cheat Sheet(出典=ローリング・ストーン誌/スコセッシ『Living in the Material World』)……オリヴィアの「あれはクラプトンの発案でした」という証言、クラプトンの「気持ちを伝えるのが難しかった」という言葉、「埋め合わせをしていた」という発言
- Eric Clapton, George Harrison and the Beatles: studio collaborations — Guitar World……二人の共作・共演の経過、「Badge」の共作
※ハリスンがビートルズ内で自作曲の採用数を制限されていた、という話はよく語られますが、信頼できる出典で確認できなかったため、この記事では使っていません。

