「500ドルかかるで」
レコードを刷る工場の主人がそう言うたら、目の前の若い男が、自分の靴下に手を突っ込みました。
出てきたのは札束です。言われた分だけ剥がして、渡した。
——日本やと妙な絵ですが、向こうではそうでもありません。英語に「sock away」という言い方があります。直訳すると「靴下にしまう」。意味は「金を貯め込む」です。1930年代にはもう、靴下は金のしまい場所として通じとりました。日本でいう、タンス預金みたいなもんですわ。
ただ、タンス預金は家に置いときます。この男は、履いて歩いとった。
そして、ラッパーやありません。
金さえ払えば、誰のレコードでも刷る工場
ロサンゼルスのサンタモニカ大通りに、マコーラという会社がありました。もとは潰れかけたレコードのプレス工場です。1982年に、ドン・マクミランというカナダ人が買い取りました。
この会社が、当時としては変わっとりました。金さえ払えば、誰のレコードでも刷ってくれるんです。
500枚で、だいたい1,000ドル。契約書もなし。マスターテープを持ち込んだら、それで話が済む。同じ頃にここから盤を出しとったクリン・テルという男は、こう言うとります。
マコーラは、マスターさえ持ち込めば何でも出せる、一か所で済む会社やった。
大手のレコード会社なら、10万枚売らんと元が取れません。ここは1,000枚で足ります。
そこへ、コンプトンから若い男が来ました。エリック・ライト。のちにイージー・Eと名乗る男です。マクミラン本人が、そのときのことを覚えとりました。
イージー・Eは、コンプトンの外のことは何も知らんかった。とにかくレコードを刷りたいと言う。「500ドルかかるで」と言うたら、あいつ、靴下に手ぇ突っ込んで、金を出して寄こしたんですわ。
のちにこの男のマネージャーになるジェリー・ヘラーが、初めて見た日のことを書いとります。同じ工場です。
ジェリーカールが、オークランド・レイダーズの帽子からはみ出しとった。目はサングラスの奥。小さな四駆から、友達のロレンゾ・パターソン(のちのMCレン)と一緒に降りてきて、一言も喋らんまま、靴下に突っ込んだ札束から、言われた金額分を抜いた。
この男が歌うことになるのは、まだ先の話です。いまは、金を出しとるだけ。
売り場は、車のトランクとフリーマーケット
さて、刷ったところで、置いてくれる店がありません。
ではどうしたか。クリン・テルの言い方が、いちばん直接です。
フリーマーケットで売った。あとは自分らの車のトランクから。
刷った盤を車の後ろに積んで、市場へ持っていく。それが「流通」でした。
この話には、有名な続きがあります。のちにドクター・ドレーが、最初のアルバムについてこう言うとるんです。
トランクから売るもんが要ったから、6週間でこしらえた。
私は最初、これを言葉のあややと思うとりました。ちがいます。ほんまに車のトランクの話です。
店に置いてもらう当てがない。ラジオでかけてもらう当てもない。あるのは自分らの車だけ。せやから、その日にトランクに積んで売れるモノが要った。だから6週間で作った。
作品を作ったんやなくて、売り物を作った。順序が逆なんです。
屋台の主は、日系の元・進路指導の先生
で、そのフリーマーケットの話です。
ロサンゼルス郊外のトーランスに、ローディアムという市場がありました。もとはドライブイン映画館やった土地が、安物を並べる青空市場になっとった場所です。
そこでレコードの屋台を出しとったのが、スティーヴ・ヤノという人でした。日系アメリカ人です。
1952年、シカゴ生まれ。三人兄弟の長男。家族はやがて、東ロサンゼルスの日系人が多い地区に落ち着きました。高校で出会うた同級生のスーザンと、のちに結婚しとります。彼女は一軍のチアリーダーで、ヤノはバスケ部の三軍でした。誘うたのはヤノのほうからです。
大学で心理学をやって、そのあと高校の進路指導の先生になりました。
それを辞めて、奥さんと二人でレコードの屋台を始めた。
仕入れのやり方も、本人が語っとります。
月曜から金曜まで、丸一週間かけて仕入れて回った。街じゅうの店を回って、中古の箱をひっくり返して。1ドルで10枚買える。そのうち3枚を2ドルずつで売れるのは、分かっとった。
これが当たりました。「これ10枚くれ」が「50枚くれ」になり、やがてレコード会社のほうから、新譜を持ち込んでくるようになります。
ロサンゼルスで、誰もが最初に電話してくるのが私やった。「これかけてみてくれ、どう思う?」
ほんで、この人が売れるかどうかを見分けた方法が、これです。
その週末の一発目で、売れるかどうかは分かる。子供らの反応を見たらええ。ええ盤やったら、子供が屋台の前でフロアに出て踊り出す。
数字やありません。目の前で人が動くかどうかです。
「やめとけ。ろくな商売やない」
イージー・Eは、この屋台の客でした。
ある日、若いエリック・ライトが来て、レコードを20枚ほど選びました。若い客としては、ちょっと異常な量です。そして靴下から現金を出して、その場で払った。
工場でやったのと、同じ動きです。
そのとき、この客が言いました。「ドレーを知っとる」。
ヤノの証言です。
気がついたら、あいつら二人と私で、朝の2時に三者通話しとった。
そこからイージー・Eが「レコード会社をやりたい」と言い出します。ヤノは、止めました。
やめとけ、と言うたんです。ろくな商売やない。
私は、この一言がずっと引っかかっとります。
これ、進路指導です。
辞めたはずの仕事を、屋台でやってしもうとる。ほんで、聞いてもらえんかった。
イージー・Eはやりました。そして「ルースレス・レコード」という会社の名前とロゴは、この屋台で決まっとります。ヤノが、その場におりました。
ヤノは2014年9月17日、自宅ではしごから落ちて亡くなっとります。62歳。花の代わりに、子供のバスケットボールのクラブへ寄付を、と家族が言うたそうです。十数年、子供にバスケを教えとった人でした。
憧れやなくて、「これならできる」
ここでいったん、ドレーの側に回ります。
この人が音楽を始めたきっかけは、はっきりしとります。1枚のレコードです。
グランドマスター・フラッシュ「The Adventures of Grandmaster Flash on the Wheels of Steel」。1981年、ニューヨークの盤です。
この盤が、他人のレコードだけで作ったレコードです。演奏はしとりません。ターンテーブル3台とミキサー2台で、他人の盤を切って貼って、10曲ぶんくらいを繋いであります。シック、ブロンディ、クイーン、シュガーヒル・ギャング。しまいには1966年の『フラッシュ・ゴードン』のレコードの語りまで入っとります。
ドレーはこれを聴いて、こう思うたそうです。
あれでDJがやりたなった。ヒップホップが何なのかを知りたなった。
ほんで、この人が次にやったことが、ええんです。
ステレオのバランスつまみを使って、自分でミキサーをこしらえた。
靴下の500ドル、車のトランクと、まったく同じ手つきですわ。無いから、あるもんで作る。
そのフラッシュという人が、どこから出てきたんか。ブロンクスで何が起きとったんかは、こちらに書きました。→ 誰も、作ろうとはしてなかった──ヒップホップが始まった日の話
もう一つ、きっかけがあります。ドレーとDJイエラの二人が、カリフォルニアでRun-D.M.C.の公演を観たときのことです。DJがスクラッチしとるだけの、簡素な編成やった。
それを観て、二人とも「自分らでもレコードが作れる」と思った。
憧れて始めたんやなくて、見て、できると思って始めとるんです。
アイス・キューブに至っては、もっと身も蓋もありません。学校のタイプの授業で、友達に「書けるもんなら書いてみい」と挑まれて、初めてラップを書いた。ちなみに、その友達は負けたそうです。
「西海岸すぎる」と、突き返された
さて、本題です。
イージー・Eが、あるグループとやりたがっとりました。HBO(Home Boys Only)といいます。東海岸から来た連中です。
その連中のために、アイス・キューブが曲を書きました。「Boyz-n-the-Hood」です。
HBOは、断りました。
キューブ本人の言葉です。
書いてみたら、あいつらには西海岸すぎた。言葉が分からんかったんですわ。それで突き返された。
ここで、私はてっきり「東と西で仲が悪かったんかな」と思うたんです。調べたら、ちがいました。
1986年の時点で、東海岸と西海岸が対立しとった記録は出てきません。
有名な東西の争いに火がついたとされるのは、1991年7月11日。ブロンクスのティム・ドッグが「Fuck Compton」を出したときです。5年あとの話です。
当時の西海岸は、そもそも相手にされとらんかった。ヒップホップは東海岸のもんで、ロサンゼルスは「まだ何者でもない場所」でした。主役もラッパーやなくてDJで、音は東海岸より速くて、電子音寄りやった。ラジオもほとんどかけてくれません。
つまり、HBOが断ったのは意地悪やありません。ほんまに、言葉が通じひんかっただけです。
そして、ここが引っかかるところです。
MCレンが、自分に影響を与えた人の名前を挙げとります。KRS-One、チャックD、ラキム、ビッグ・ダディ・ケイン、Run-D.M.C.。いちばん好きなアルバムは、ブギー・ダウン・プロダクションズの『Criminal Minded』。
全部、東海岸です。
ドレーに火をつけたフラッシュもブロンクス。二人が観たRun-D.M.C.はクイーンズ。
この連中は、全員、東海岸のレコードを見て始まっとる。
ほんで、その東海岸から来たグループに、言葉が分からんと突き返された。
憧れた側の言葉が、憧れられた側に通じひんかった、ということです。誰も悪いことはしとりません。
歌ったのは、ラッパーやなかった男
曲は宙に浮きました。ただ、キューブはもうスタジオ代を払ってしまっとる。
そこでドレーが、経営側の人間やったイージー・Eを口説きました。キューブの言い方です。
ドレーが、お前の声でいける、とイージーを説き伏せた。
こうして、他人のために書かれ、その他人に断られた曲を、ラッパーやなかった社長が歌いました。
ちなみに、この曲を書いたキューブは、当時16歳です。16歳の子が書いた曲を、レコード会社の社長が歌うとるわけです。
断ったHBOのほうは、どうなったか。
HBO名義のレコードは、1枚も見つかりません。メンバーの名前を書いとる資料も、まともなものが出てきませんでした。
断った時点では、断った側も、断られた側も、どっちも無名やったんです。ちごうたのは、断ったか、拾ったか。それだけでした。
100万枚売れて、順位は37位
そこから作られたのが『Straight Outta Compton』です。世に出たのは、1989年1月25日でした。
制作費は12,000ドル。かかった期間は6週間。録ったのは、トーランスにある小さなスタジオでした。ヤノの屋台と、同じ町です。
この発売日について、一つ書いておきます。
この盤は、1988年8月8日に出たと、あちこちに書かれとります。大きな媒体でも、そうなっとります。
ところが、その時期に彼らがやっとったのは、録音です。
イージー・E本人のソロ盤が1988年11月22日に出ることになっとったので、そちらと時期がぶつからんように、レーベルが発売をずらしました。それで年をまたいで、1989年になっとります。レコード協会の記録も、DJイエラ本人があとで書いた本も、1989年1月25日です。
作っとった日のほうが、記念日として残ってしもうたわけです。
さて、この盤の売れ方が、変わっとります。
- ラジオは、ロサンゼルス以外ではほとんどかかりません
- MTVは、この曲のビデオを放送禁止にしました
- FBIが、レコード会社宛に警告の書状を送っとります
それで、どうなったか。
1989年7月に、100万枚を超えました。出てから半年です。
しかも、売れた先が意外です。そのおよそ8割が、白人の多い郊外でした。
店もラジオもMTVも通さずに、100万枚。ところが、です。
ビルボードでの最高順位は、37位でした。
ここが、この記事でいちばん書きたかったところです。
当時のビルボードは、店に電話をかけて「おたくで売れとる上位30枚を教えてください」と聞いて順位を作っとりました。
車のトランクとフリーマーケットで売れた枚数は、電話しても出てきません。そこには、電話をかける相手がおらんのです。
売り方そのものが、数え方と噛み合うてなかった。
数え方が変わった月に、1位
1991年に、話が動きます。
| 日付 | 出来事 |
|---|---|
| 1991年5月25日 | ビルボードのアルバムチャートが、店のレジでバーコードを読んだ数字に切り替わる |
| 1991年6月 | N.W.Aのアルバムが1位になる(前の週は2位) |
| 1991年7月11日 | ブロンクスから「Fuck Compton」が出る |
店の人の申告やなく、レジを通った数をそのまま数える。そう変えた翌月に、1位が出ました。
売れる量が急に増えたわけやありません。数え方が、やっと拾えるようになっただけです。
ついでに言うと、その翌月に出た「Fuck Compton」は、東海岸の側から出た文句でした。ティム・ドッグがこの曲を録った理由は、レコード会社が東海岸の連中に関心を示さんことへの苛立ちやったと言われとります。
5年前は、西海岸の言葉が東海岸に通じませんでした。5年たったら、東海岸が「会社が西海岸ばっかり見とる」と怒っとるわけです。
ただし、7月に出た曲は、それより前に録られとるはずです。ここに因果があるとまでは言えません。並べると、そう見えるというだけの話です。
この「1991年に数え方が変わった」という話そのものは、別に一本書きました。順位というものが、いつの時代も同じ意味やなかったという話です。→ 順位は、冷蔵庫で買えました──ビルボードチャートの九十年
最後に、もういっぺんヤノの言葉を置かせてください。
ええ盤やったら、子供が屋台の前でフロアに出て踊り出す。
屋台のおっちゃんは、フロアを見とりました。ビルボードは、店に電話をかけとりました。
同じ時期に、同じものを測ろうとして、片方は人を見て、片方は電話をかけとったわけです。
ほんで、表に載るのは、長いこと後者だけでした。
——この「フロアを見る」という測り方、じつはもっと前から、もっと東のほうでやっとった人がおります。その話は、また今度。
参考文献
この記事の事実は、公開されとる資料で一つずつ確かめました。何をどこで確かめたかを、あわせて書いときます。数字は集計の時点で変わります。URLも変わることがあります。
- Macola Records: An Oral History — Red Bull Music Academy Daily……ドン・マクミランが1982年にサンタモニカ大通りのプレス工場を買い取ったこと、500枚で約1,000ドルやったこと、1,000枚で元が取れたこと、長期契約を結ばんかったこと、靴下から500ドルを出したという本人の証言、クリン・テルの「フリーマーケットと、自分らの車のトランク」という証言
- sock — Etymonline(語源辞典)……「sock away」=金を貯め込む、が1942年から使われとること、それが「靴下に金を隠す」という発想から来ていること、靴下を金のしまい場所とする言い方が1930年までさかのぼること
- sock, n.¹ — Green’s Dictionary of Slang……sock が「有り金・銀行口座」の意味で1904年から、「財布・金入れ」の意味で1911年から使われとること、「ace-in-the-sock」=いざというときの蓄え(1943年)
- Jerry Heller Expresses Himself — Grantland……ヘラーの自著『Ruthless』からの引用として、初めてイージー・Eを見た日の様子(ジェリーカール、オークランド・レイダーズの帽子、サングラス、四駆、同乗しとったロレンゾ・パターソン、一言も喋らずに靴下の札束から金額分を抜いたこと)
- The Secret History of Gangsta Rap — Terry McDermott……ローディアムがドライブイン映画館の跡地やったこと、ヤノの仕入れ方(月曜から金曜まで/1ドルで10枚)、売れ方が10枚から50枚になったこと、「子供が踊り出す」という見分け方、「誰もが最初に電話してくるのが私やった」、イージー・Eが20枚買って靴下から払ったこと、「やめとけ、ろくな商売やない」、ルースレスの名前とロゴが屋台で決まったこと
- A Long, Legendary Reach — 羅府新報……ヤノが日系アメリカ人であること、シカゴ生まれで三人兄弟の長男やったこと、家族が東ロサンゼルスの日系人地区に落ち着いたこと、高校でスーザンと出会うたこと(一軍のチアリーダーと三軍のバスケ部)、心理学と進路指導の仕事、亡くなった経緯(自宅ではしごから落ちた)、子供のバスケットの指導と、花の代わりの寄付
- The Roadium Swap Meet: Birthplace of N.W.A. — National Trust for Historic Preservation……ローディアムがトーランスにあること、ヤノが元は高校の教員やったこと、イージー・Eが常連客で、そこで買うた盤から「作っとる連中に会いたい」と思うたこと、ヤノがイージー・Eとドレーを繋いだこと
- Interview: Ice Cube Talks About The Making of Eazy-E’s “Eazy-Duz-It” — Complex……「Boyz-n-the-Hood」をアイス・キューブが書いたこと、HBOのために書いて断られたこと、その理由が「西海岸すぎて言葉が分からん」やったこと、スタジオ代をすでに払っており、ドレーがイージー・Eを説き伏せたこと
- Straight Outta Compton — Wikipedia……制作費12,000ドルと、6週間で作ったというドレーの発言、録音がトーランスのスタジオやったこと、ラジオとMTVの扱い、FBIの書状、1989年7月のプラチナ認定(100万枚)、売上のおよそ8割が白人の多い郊外やったこと、ビルボード200の最高37位。発売日について……よく言われる1988年8月8日は録音の時期と重なるものであること、レコード協会(RIAA)が公式の発売日として1989年1月25日を挙げていること、DJイエラが2021年の自著で同じ日付を裏づけていること、プライオリティのプレスキットが「1989年2月発売予定」としていたこと、イージー・Eのソロ盤などと時期が重ならんようにレーベルが発売をずらしたこと
- Eazy-Duz-It — Wikipedia……イージー・Eのソロ盤が1988年11月22日に出たこと、録音がN.W.Aの盤の直前にトーランスの同じスタジオで行われたこと
- Gangsta rap hits the mainstream with the release of N.W.A’s “Straight Outta Compton” — HISTORY……発売日を1988年8月8日としている例。典拠は書かれておらず、本文ではこの日付を採っておりません
- Dr. Dre — Wikipedia……グランドマスター・フラッシュの盤に触発されたこと、イヴズ・アフター・ダークという店に通うたこと、DJイエラと出会うたこと
- ‘The Adventures Of Grandmaster Flash On The Wheels Of Steel’ inspired Dre — Capital XTRA……「あれでDJがやりたなった。ヒップホップが何なのかを知りたなった」というVibe誌での発言、ステレオのバランスつまみでミキサーを作った話
- DJ Yella — Wikipedia……ドレーと二人でRun-D.M.C.を観て「自分らでもレコードが作れる」と思うたこと、イヴズ・アフター・ダークでDJをしとったこと
- Ice Cube — Wikipedia……学校のタイプの授業で、友達に挑まれて初めてラップを書いたこと、16歳で最初の曲をエリック・ライトに売ったこと
- MC Ren — Wikipedia……影響を受けた人として挙げた5人(KRS-One、チャックD、ラキム、ビッグ・ダディ・ケイン、Run-D.M.C.)と、いちばん好きなアルバム『Criminal Minded』
- West Coast hip hop — Wikipedia……1980年代の西海岸がDJ中心のパーティ文化やったこと、東海岸より速く電子音寄りの音やったこと、初期はほとんど放送に乗らんかったこと
- Fuck Compton — Wikipedia……1991年7月11日の発売、ティム・ドッグがブロンクスの人であること、録音の動機が「レコード会社が東海岸に関心を示さんこと」への苛立ちやったこと、この曲が1990年代の東西の争いに火をつけたとされること
- The Adventures of Grandmaster Flash on the Wheels of Steel — Wikipedia……1981年の発売、ターンテーブル3台とミキサー2台で作られたこと、切り貼りされた約10曲の顔ぶれ(シック、ブロンディ、クイーン、シュガーヒル・ギャング、1966年の『フラッシュ・ゴードン』の語りなど)
- N.W.A — Wikipedia……1987年にコンプトンで結成されたこと、顔ぶれと加入の時期、1991年のアルバムがビルボード200で1位になったこと
- Eazy-E — Wikipedia……本名エリック・ライト、1964年9月7日コンプトン生まれ、ルースレス・レコードを作ったこと
- How SoundScan Changed Everything We Knew About Popular Music — The Ringer……1991年より前は店に電話して上位30枚を聞いとったこと、N.W.Aのアルバムが1991年6月に1位になり、前の週は2位やったこと
- How the Charts Have Evolved Across Billboard’s History — Billboard(公式)……1991年5月25日に、アルバムチャートがレジのデータへ切り替わったこと
なお、曲の映像は、いずれも公式のチャンネル、もしくはレコード会社の音源から自動で作られるチャンネルのものを使うとります。投稿者名は、埋め込む前に機械で確認しました。
この記事では、グランドマスター・フラッシュ「The Adventures of Grandmaster Flash on the Wheels of Steel」も聴いてもらうつもりでした。ところが、日本からは再生できんようになっとりました。個人が上げたものなら再生できますが、権利の面で消える恐れがあるので使わん決まりにしとります。そういうわけで、この曲だけ音を出せておりません。曲名で探してもらえたら出てきます。
なお、ヤノの生まれた月日については、霊園の記録に載っとりました。ただ、そのページが自動のアクセスを弾く設定になっとって、公開前の確認が機械で通りませんでした。確認できんかった資料は参考文献に載せん決まりにしとるので、外しました。それに合わせて、本文でも月日は書かず、生まれた年だけにしてあります。

