新学期の服が、買いたかった。
それが理由です。1973年8月11日、ニューヨークのブロンクス。18歳の女性が、自分の住んどるアパートの集会室を借りて、パーティを開きました。
入場料は、女25セント、男50セント。
この日が、ヒップホップが始まった日ということになっとります。ただ、その場に「新しい音楽を作ろう」と思うとった人間は、たぶん一人もおりません。
新学期の服を買うためのパーティ
場所はセジウィック・アベニュー1520番地。ウェスト・ブロンクスの、ごく普通の集合住宅です。
開いたのはシンディ・キャンベルという女性でした。目的は、さっき書いたとおりです。秋から着る服を買う金が要った。それでチラシを作って、人を集めた。
部屋には数百人しか入りません。そこに高校生がぎゅうぎゅうに詰まりました。
その日の売上は、300ドル。
レコードを回したのは、シンディの弟です。
ジャマイカから来た、レコード係の弟
弟の名前はクライヴ・キャンベル。のちにクール・ハークと呼ばれる男です。
1955年4月16日、ジャマイカのキングストン生まれ。1967年11月、13歳のときに家族でブロンクスへ移りました。
キングストンでこの子が見とったのが、サウンドシステムです。町の広場や空き地に、でかいスピーカーを組んで音を鳴らす。そこでレコードに合わせて喋る人がおる。トースティングといいます。
ハークは、それをブロンクスに持ってきました。音の大きさが尋常やなかったそうで、本人がこう言うとります。
わしがここを制圧しとった。
高速道路まで音が届いた、という話です。低音についても、はっきり言うとります。
わしの音楽は、だいたい低音の話や。
ところが、です。
肝心のレゲエのレコードが、ブロンクスでは受けませんでした。
最初に何枚かかけた。でも、引っかからんかった。
そこで、この人はあっさり切り替えます。
ローマにおるんやから、ローマの流儀でやらなしゃあない。ここにある溝に乗らなあかん。
かけるのを、ソウルとファンクに変えました。
つまり、ジャマイカから曲は持ってこんかった。鳴らし方だけ持ってきたわけです。
発明やない。ハークはフロアを見とっただけ
ここからが、この人のいちばん大事なところです。
ソウルやファンクのレコードには、途中で歌も伴奏もいっぺんに引いて、打楽器だけになる数秒があります。ブレイク、といいます。
ハークは、そこで何が起きるかに気づきました。
みんな、そこを待っとった。
その数秒になった瞬間に、客がフロアに出てくる。ほんで、終わったら引っ込む。
そこで、この人はどうしたか。
同じレコードを2枚買うて、2台で交互にかけて、その数秒だけを繋ぎ続けました。
数秒しかなかったものが、何分でも続くようになる。これが「メリーゴーラウンド」と呼ばれる技で、ヒップホップの土台になりました。
ハークがこのとき繋いだ盤の一枚が、これです。打楽器が転がっとるところを聴いてもらえたら、当時のブロンクスの子らが何を待っとったかが分かると思います。
ここで、私が引っかかったのはこの一点です。
この人は、新しいことを思いついたんやありません。フロアを見とっただけです。
人がどこで出てきて、どこで引っ込むか。それを見て、出てくるところだけを伸ばした。客のほうが先に答えを出しとって、それを拾った、という順番です。
フラッシュの道具は、フェルトとワックスペーパー
もう一人おります。グランドマスター・フラッシュ。本名ジョセフ・サドラー。1958年1月1日、バルバドス生まれで、ブロンクス育ちです。
この人の家に、二つのものがありました。
一つは、父親のレコードです。相当な収集家やったそうで、本人が1982年の取材でこう言うとります。
親父はえらいレコードを集める人でしてね。押し入れを開けて、あるレコードをただ眺めとった。
もう一つが、母親の勧めでした。電子工学をやれ、と。それでサミュエル・ゴンパーズ高校という職業訓練の学校に入って、電子機器の修理を習っとります。
この二つが、そのまま道具になりました。
ハークがやった「ブレイクを繋ぐ」を、もっと細かく、もっと正確にやろうとしたわけです。ところが、そんなことができる機械は売っとりません。
だから、作りました。
- レコードを滑らせるために、フェルトとワックスペーパーで下敷きを作った(いまスリップマットと呼ばれとるものです)
- 針の先を、楕円形やなく球形にすると、レコードを逆回ししても溝から外れんことを見つけた
そのうえで、指先とつまみで、曲のごく短い一片を切って、貼って、繰り返して、伸ばすやり方を組み立てました。
レコード収集家の息子で、電気の修理ができた。だから、この技ができた。
才能の話やありません。家にあったものの話です。
演奏が一つも入っとらんレコード
1981年、フラッシュは1枚の盤を出します。「The Adventures of Grandmaster Flash on the Wheels of Steel」。
これ、演奏が一つも入っとりません。
ターンテーブル3台とミキサー2台で、他人のレコードを切って貼って、10曲ぶんくらいを繋いだだけの盤です。シック、ブロンディ、クイーン、シュガーヒル・ギャング。しまいには1966年の『フラッシュ・ゴードン』のレコードの語りまで入っとります。
録音は、ツアーの合間の4日のうちの3時間。10回から15回、録り直しとります。本人いわく、
合わせ切るのに、一日二日かかった。
この盤は、楽器がターンテーブルとミキサーだけ、という最初のレコードとされとります。
盤面が映っとるだけの動画ですが、1981年のプロモ盤のラベルに、切り貼りされた曲の名前が刷ってあります。シック、ブロンディ、クイーン、シュガーヒル・ギャング、ファーリアス・ファイヴ、スプーニー・ジー。権利元をきちんと並べてある、ということです。
翌年に出した曲のほうは、たぶん聴いたことがある人も多いと思います。
名前をつけたのは、ギャングの軍師
三人目です。アフリカ・バンバータ。本名ランス・テイラー。1957年4月17日、ブロンクス生まれ。両親がジャマイカ人とバルバドス人です。
この人は、もともとブラック・スペーズという不良の一団におりました。しかも下っ端やありません。一部隊の「軍師」まで上がっとります。ほかの地区と話をつけて、構成員と縄張りを広げるのが仕事でした。
転機は、作文でした。
懸賞に当たって、アフリカへ行く旅費が出たんです。
そこで見た共同体のありようが、この人を変えました。名前も変えとります。ズールーの首長バンバータから取りました。本人いわく、「情の深い指導者」という意味やそうです。
そして1977年11月12日、ユニバーサル・ズールー・ネイションという組織を正式に立ち上げました。
やったことは、はっきりしとります。
DJ、ラップ、Bボーイ(踊り)、グラフィティ。ばらばらにやられとった四つを、一つの名前でくくった。
ハークが技を作り、フラッシュが道具を作り、バンバータが名前をつけた。そういう並びです。
始めた三人は、全員カリブ海の出
ここで、並べてみます。
| 人 | 出自 |
|---|---|
| クール・ハーク | ジャマイカ・キングストン生まれ(1955年) |
| グランドマスター・フラッシュ | バルバドス生まれ(1958年) |
| アフリカ・バンバータ | ブロンクス生まれ。両親がジャマイカ人とバルバドス人 |
ヒップホップはブロンクスで生まれた、と言われます。それは間違いやありません。
ただ、始めた三人は、全員カリブ海から来た人間でした。
ハークがサウンドシステムとトースティングを持ってきた話は、さっき書いたとおりです。曲は捨てて、鳴らし方だけ持ってきた。
そのジャマイカで、同じ時期に何が起きとったかというと、こちらに書きました。→ 保安官を撃ったのは誰か──ボブ・マーリーとエリック・クラプトン
1981年の盤が届いた先は、コンプトン
話を1981年に戻します。
フラッシュのあの盤が、3800キロ離れたカリフォルニア州コンプトンの、若い男の手に届きました。
アンドレ・ヤング。のちのドクター・ドレーです。聴いたときのことを、こう言うとります。
あれでDJがやりたなった。ヒップホップが何なのかを知りたなった。
ほんで、この人が次にやったことが、ハークともフラッシュとも同じでした。
ステレオのバランスつまみを使って、自分でミキサーをこしらえた。
フラッシュがフェルトとワックスペーパーで下敷きを作ったのと、同じことです。無いから、あるもんで作る。これが、ブロンクスからコンプトンまで、そのまま渡っとります。
ロサンゼルス側にも受け皿がありました。アンクル・ジャムズ・アーミーという一団です。1978年にロジャー・クレイトンが立ち上げました。名前はパーラメント/ファンカデリックの盤から取ったそうで、本人いわく「パーティの軍隊」。
最初は自作のサウンドシステムで、町なかのパーティを回っとりました。1980年代の半ばには、ハリウッド・パラディアムやロサンゼルス・スポーツ・アリーナまで届くようになります。
ここでDJをやっとった一人が、のちにN.W.Aを作る側に回ります。アラビアン・プリンスという人です。
そしてアンクル・ジャムズ・アーミーが店じまいしたのが、1980年代の終わり。ちょうどN.W.Aとルースレス・レコードが出てきた時期です。
その、コンプトンで何が起きとったかは、こちらに書きました。→ 言葉が、通じんかった──N.W.Aと、突き返された一曲
——さて、こうやって並べてみると、この話には設計図が一枚もありません。
服を買う金が要った姉。曲が受けんかったので鳴らし方を変えた弟。客が踊り出すところを見とった男。売っとらんから道具を自作した男。ギャングから抜けて名前をつけた男。そして、バランスつまみをいじった若者。
誰も、音楽の一分野を作ろうとはしてません。目の前のことを、それぞれが何とかしただけです。
——ほんで、この「フロアを見て決める」というやり方は、このあと三十年たって、ロサンゼルスのフリーマーケットの屋台でも使われとりました。その話は、また今度。
参考文献
この記事の事実は、公開されとる資料で一つずつ確かめました。何をどこで確かめたかを、あわせて書いときます。URLは変わることがあります。
- DJ Kool Herc — Wikipedia……本名クライヴ・キャンベル、1955年4月16日にキングストンで生まれ、1967年11月に13歳でブロンクスへ移ったこと、住まいがセジウィック・アベニュー1520番地やったこと、1973年8月11日のパーティを姉のシンディが開いたこと、メリーゴーラウンドと、そのときに繋いだ盤、ジャマイカのサウンドシステムとトースティングの影響
- Interview: DJ Kool Herc — Red Bull Music Academy Daily……本人の言葉。音が高速道路まで届いたこと、「わしの音楽は、だいたい低音の話や」、「最初に何枚かかけた。でも、引っかからんかった」、「ローマにおるんやから、ローマの流儀でやらなしゃあない」、「みんな、そこを待っとった」とブレイクを見つけた経緯
- How Hip-Hop Was Born 50 Years Ago at a Block Party in the Bronx — Smithsonian Magazine……新学期の服の金を作るために姉が開いたこと、入場料が女25セント・男50セントやったこと、その日の売上が300ドルやったこと、部屋の広さと客層、キングストン式のサウンドシステムでソウルとファンクをかけたこと
- Grandmaster Flash — Wikipedia……本名、1958年1月1日バルバドス生まれ、父のレコード収集と1982年の発言、母の勧めで電子工学へ進み、サミュエル・ゴンパーズ高校で修理を習ったこと、フェルトとワックスペーパーの下敷き、球形の針、切って貼って繰り返して伸ばすやり方
- The Adventures of Grandmaster Flash on the Wheels of Steel — Wikipedia……1981年の発売、ターンテーブル3台とミキサー2台/4日のうち3時間/10〜15回の録り直し、切り貼りされた約10曲の顔ぶれと『フラッシュ・ゴードン』の語り、「楽器がターンテーブルとミキサーだけ、という最初のレコード」とされること
- Afrika Bambaataa — Wikipedia……本名ランス・テイラー、1957年4月17日ブロンクス生まれで、両親がジャマイカ人とバルバドス人であること、ブラック・スペーズでの立場、作文の懸賞で行ったアフリカ旅行、名前の由来、1977年11月12日のユニバーサル・ズールー・ネイション設立、DJ・ラップ・Bボーイ・グラフィティを含む組織であったこと
- Uncle Jamm’s Army — Wikipedia……1978年、ロジャー・クレイトンによる設立と「パーティの軍隊」という言い方、自作のサウンドシステム、1980年代半ばの会場、アラビアン・プリンスがDJとして在籍しとったこと、1980年代末に終わったこと
- ‘The Adventures Of Grandmaster Flash On The Wheels Of Steel’ inspired Dre — Capital XTRA……ドレーの「あれでDJがやりたなった。ヒップホップが何なのかを知りたなった」という発言、ステレオのバランスつまみでミキサーを作った話
なお、曲の映像は、埋め込む前に投稿者とタイトルを確かめ、そのうえで実際に再生できるかどうかも画面で見て確かめました。

