どちらでもなかった男──ボブ・マーリーが、撃たれた二年後に握らせた手

2人の政治家の手を掲げるレゲエ歌手と、幼少期や銃撃後の舞台復帰を重ねたコラージュ

ジャマイカで殺し合いをやっとった二つの政党の、党首同士が握手したことがあります。

1978年4月22日、キングストンの国立競技場。ステージの上でした。

握らせたんは政治家やありません。その一年半前に、その争いのせいで胸を撃たれた男です。

その男は、生まれたときからどっちの側でもありませんでした。今日は、その話を。

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白人の役人が父、18歳の娘が母

1945年2月6日、ジャマイカのセント・アン教区、ナイン・マイルという山村で生まれとります。電気も水道もない農村で、生まれた場所は母方の祖父の農場でした。

父はノーヴァル・マーリー。ウェールズ系の血を引く白人ジャマイカ人で、仕事は復員兵向け住宅のための土地区画の監督です。戦争から帰ってきた兵隊に土地を配る役所仕事ですわ。

母セデラは、産んだとき18歳。父は60歳近い。約40歳の差があります。

そして父方の家族は、この結婚に猛反対しました。父は経済的な援助をほとんどせず、めったに会いにも来ん。ボブが5歳の頃には来んようになって、その5年後、ボブが10歳のときに死にます。

「ハーフカースト、やなんやかんや」

本人が1975年のインタビューで、こう言うとります。

「父は白人、母は黒人。それで俺が何と呼ばれたか分かるか。ハーフカースト、やなんやかんや」

ハーフカーストというのは、混血の人を指す当時の言い方です。いまはまず使われません。

肌が明るいほど得やった島

当時のジャマイカがどういう場所やったか。歴史学者アルティンクが、こう書いとります。

「ドアマンはレジ係より肌が黒く、レジ係は店長より黒かった」

店の入口に立つ人がいちばん黒く、奥へ行くほど明るくなる。これが雇用だけやなく、学校でも、教会でも、政治でも、乗り物でも通っとった。肌が明るいほど、事務の仕事と上等な学校に近い。ジャマイカは1962年まで英国の植民地で、人口の九割以上が奴隷にされたアフリカ人の子孫でした。

ほんで、アルティンクが書いとることで、私がいちばん引っかかったんはここです。その序列は、口に出されへんかった。「誰もが存在を知っとるのに、なぜか、はっきり認められへんもの」。差別の話はいつも遠回しに語られて、肌の濃さの話は「あれは階級の話や」と言い換えられた。研究者本人が、当事者から直接の証言を取れず、総督の書簡や新聞や小説から証拠を拾い集めなあかんかった、と。

その島で、白人の父を持った子が、白人の側に入れてもらえんかった。入れてもらえん理由も、たぶん誰も口に出さんかったはずです。

ナイン・マイルの同級生が、のちのバニー・ウェイラー

村には学校がありました。ボブはナイン・マイルのステップニー校に通うとります。

そこの同級生が、のちのバニー・ウェイラー。ウェイラーズの三人のうちの一人です。二人は山村におった時分からの友達でした。

12歳のとき、母親と一緒にキングストンのトレンチタウンへ移ります。公式の経歴に「下水溝の上に建てられた低所得地区」と書いてある町です。居候先で居づらくて、庭で寝たこともある。

溶接工の見習いから、20ドルの3曲へ

ここ、意外に思われるかもしれません。母親は、音楽に反対しとりました。

手に職をつけさせようとして、溶接工の見習いの仕事を見つけてきた。ところがその仕事に就いて間もなく、小さな鉄の破片がボブの目に刺さります。その一件のあと、ボブは溶接をやめて、音楽だけに向かいました。

志やありません。怪我です。

1962年、16歳。プロデューサーのレスリー・コングと「Judge Not」ほか2曲を録りました。ジャマイカが英国から独立した年です。

3曲とも、世間に届きませんでした。そして受け取った金が20ドル。買い取りで、印税やない。売れても売れんでも、それきりです。公式サイトはこれを、当時のジャマイカ音楽業界の搾取的な慣行やと書いとります。

不良への「落ち着け」が、初めての当たり

翌1963年、幼馴染のバニーと二人で、トレンチタウンに住んどったジョー・ヒッグスの発声教室に通い出します。そのヒッグスがピーター・トッシュを紹介して、三人でウェイリング・ウェイラーズになりました。

ほんで、初めて当たった曲がこれです。

「Simmer Down」。街の不良に向かって「まあ落ち着け」と言う歌です。キングストンで暴力と犯罪が増えとることに対して、冷やせ、と。

これがウェイラーズの一枚目のシングルで、1964年2月、ジャマイカで1位になります。

ちなみに、その「1位」が何を数えた1位なんかは、私には確かめられませんでした。当時のジャマイカには放送局が出しとった表があって、そこでの1位やと思われますが、そこまでです。順位というものが、いつの時代も同じ意味やなかったという話は、別に一本書いとります。→ 順位は、冷蔵庫で買えた──ビルボードチャートの九十年

イギリスで1位の娘と、島で1位の男

同じ頃、島の外に出た人がおります。

ミリー・スモール。1946年、クラレンドン教区ヴィアの生まれ。砂糖農園の監督の娘で、12人きょうだいの末っ子でした。

クリス・ブラックウェルという男が、1963年の暮れ、彼女が一人で旅ができる年になったところでイギリスへ連れて行きます。そして翌1964年、「My Boy Lollipop」が世界で700万枚超。ジャマイカ国立図書館は彼女を「ジャマイカの大衆音楽を初めて国際的な舞台に出したジャマイカ人歌手」としとります。

日付を並べると、こうなります。1964年2月、ボブが島の中で1位。その翌月、一つ年下の娘が、イギリスのチャートのてっぺん近くにおった。

それと、もう一つ。そのミリーを連れて行ったブラックウェルが、8年後にボブを自分のレコード会社に入れる男です。ボブが1972年にようやくたどり着く扉の前に、1963年の時点でミリーが立っとった。

島の外へ出るまで、まだ間があります。しかも最初に世界へ届いたんは、本人の声やのうて、イギリス人が歌うた本人の曲でした。保安官を撃ったのは誰か──ボブ・マーリーとエリック・クラプトン

妻が見た、皇帝の掌の印

1966年4月21日、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世がキングストンの空港に降りました。ジャマイカのラスタファリの人らにとっては、待っとった人が来た日です。

ラスタファリというのは、1930年代のジャマイカで生まれた宗教運動です。セラシエが即位前に名乗っとったラス・タファリという名前が、そのまま呼び名になっとります。支配の仕組みを「バビロン」と呼んで拒み、アフリカを本来の故郷とみなす。髪を切らんのも、この教えから来とります。

ほんで、その日、ボブはジャマイカにおりません。

アメリカのデラウェアで働いとりました。デュポンの研究助手と、クライスラー工場の組み立てライン。しかも「ドナルド・マーリー」という偽名で。

空港におったのは妻のリタです。彼女はセラシエの掌に印があるのを見て、聖痕やと受け取りました。ボブをこの信仰へ動かしたんは、その妻の確信やった、と書かれとります。

その日、飛行機のタラップを上って、群衆の前に出るよう皇帝を促した男がおります。モーティマー・プラノ。ボブとは同じ西キングストンの近所で、黒人解放とエチオピア史の本を並べた蔵書を持っとった人です。ボブが1966年の暮れに帰ってきてから、二人の関係は深まりました。

レーベルを畳んだ年の、初めてのラスタの一曲

帰国したボブは、仲間と自分らのレコード会社を作ります。「Bend Down Low」「Mellow Mood」といった当たった曲も出しました。

それが1968年、資金不足で解散します。当たった曲を出しとるのに、続ける金がなかった。前に世話になったスタジオからも、売上が落ちたことに加えてまともな金が支払われんかったことで離れとります。

まわりも崩れました。1967年にバニーが収監、1968年にトッシュが逮捕。1968年の後半には、レコードを刷る工場が全焼しとります。

その1968年の6月に、ボブが初めて公然とラスタを打ち出した録音をやっとります。金を出して手伝うたのは、プラノでした。

ついでに言うときますと、「レゲエ」という言葉がレコードの題に初めて載ったのも、この1968年です。トゥーツ・アンド・ザ・メイタルズの「Do the Reggay」。もとは音楽の名前やのうて、当時流行っとった踊りの呼び名でした。トゥーツ・ヒバートによると、語源は「だらしない、身なりの整わん人」を指す俗語やそうです。

ボブはレゲエを歌おうとして始めたんやありません。始めたときには、まだ無かったんですから。

銃撃の二日後、「1曲だけ」の約束で90分

ここから、一気に1976年へ飛びます。

この年のジャマイカは、政治で人が死ぬ国になっとりました。人民国家党(PNP)と、ジャマイカ労働党(JLP)。この二つが、住む町ごと割れて争っとります。1976年6月19日に非常事態宣言。12月15日に総選挙。その選挙までに、政治暴力で100人以上が殺されとります。

ボブは中立を保っとりましたが、PNPのマイケル・マンリー支持と見なされとりました。

1976年12月3日、午後8時半頃。キングストンのホープロード56番地の自宅で、銃撃されます。ボブは胸と腕、妻のリタは車の中で頭部、マネージャーのドン・テイラーは脚と胴体。死んだ人はおりませんでした。

その二日後の12月5日、文化省が企画した無料コンサート「Smile Jamaica」がありました。

ボブは「1曲だけやる」と約束して、あの舞台に出ます。そして90分やりました。

客は8万人。リタは、数時間前に退院したときの病院着のままコーラスに立っとります。ステージには200人以上が上がって、その多くが人間の盾になりました。

ほんで、ここが厄介なところです。マンリーが総選挙を12月15日に前倒ししました。中立のつもりの無料コンサートが、投票の10日前の集会になってしもうた。ボブの出演がPNPの勝利を助けた、と言われとります。撃った連中はJLP系のギャングと繋がりがあると疑われましたが、誰も逮捕されとりません。

ボブはこのあと16か月、ナッソーとロンドンへ出ます。

握手を言い出したんは、刑務所で会うたギャング二人

1978年4月22日、キングストンの国立競技場。3万2千人以上が集まりました。

この日を言い出したのは、政治家やありません。ギャングの頭が二人です。

JLP系のクローディ・マソップと、PNP系のバッキー・マーシャル。この二人が、刑務所で一緒になったときに思いつきました。音楽やったら和解させられるんちゃうか、と。マソップはロンドンまで行って、亡命中のボブを口説いとります。

出演は16組。ピーター・トッシュも、バニー・ウェイラーも出ました。ウェイラーズの三人が、別々の名前で同じ舞台に立っとります。

握手は、この曲の最中でした。

「Jammin’」。演奏の途中で、ボブがこう呼びました。

「マイケル・マンリー氏と、エドワード・シアガ氏に出てきてもらえますか。握手してほしいだけです」

三人で手を組んで、上に掲げました。白人の側にも黒人の側にも入れてもらえんかった男が、まん中に立って、二人の手を持ち上げとります。

手を組ませた二年後、言い出しっぺは二人とも死亡

ここで終わったらええ話なんですが、そうはなりませんでした。

マソップは1979年、キングストンで警察の追跡を受けて、車の中で約40発撃たれて死にます。マーシャルは1980年、ニューヨークのナイトクラブで殺されました。言い出した二人が、二年以内に両方おらんようになっとります。

平和も続きませんでした。1980年の選挙の年の死者数は資料で割れますが、どの数字を取っても、1976年よりはるかに増えとります。

ボブ本人も、1981年5月11日に36歳で亡くなりました。

あの夜の握手が何を変えたんか。正直、私には分かりません。変わらんかったようにも見えるし、あの三人が手を組んだ写真がいまも残っとることに意味があるようにも見える。

ただ一つ言えるんは、どっちの側でもなかった男やなかったら、あの真ん中には立てんかったということです。白人の家から締め出されて、黒人の島で「ハーフカースト」と呼ばれて、二つの党のどっちにも属さんかった。入れてもらえんかったことが、そのまま資格になっとります。

──ボブ・マーリーの話は、これでもまだ半分です。世界に届いた「No Woman, No Cry」の作詞作曲のところに載っとるのは、本人の名前やありません。スラムに残って炊き出しをやっとった友人の名前です。その話は、また次の機会に。

参考文献

この記事の事実は、公開されとる資料で一つずつ確かめました。何をどこで確かめたかを、あわせて書いときます。URLは変わることがあります。

  • History — Bob Marley(公式サイト)……母が音楽に反対して溶接工の見習いの仕事を見つけてきたこと、目に鉄の破片が刺さって溶接をやめたこと、レスリー・コングと録った3曲が届かず受け取ったのが20ドルだけで、それが搾取的な慣行であったこと、ジョー・ヒッグスの発声教室とウェイリング・ウェイラーズの結成、デラウェアでのデュポンの研究助手とクライスラー工場のライン、偽名「ドナルド・マーリー」、自分らのレコード会社が1968年に資金不足で解散したこと、前のスタジオからまともな金が支払われんかったこと
  • Bob Marley — Wikipedia……生まれたのが母方の祖父の農場であること、父ノーヴァルがウェールズ系の血を引く白人ジャマイカ人で復員兵向け住宅の土地区画を監督していたこと、母セデラが18歳であったこと、ナイン・マイルのステップニー校と同級生がのちのバニー・ウェイラーであること、12歳でトレンチタウンへ移ったこと
  • Judge Not (song) — Wikipedia……1962年の録音でボブが16歳であったこと、売れなかったこと
  • Simmer Down — Wikipedia……ルードボーイに向けて「落ち着け」と歌った曲であること、ウェイラーズの一枚目のシングルであること、1964年2月にジャマイカで1位になったこと
  • Public Secrets: Race and colour in colonial and independent Jamaica — The Social History Society……「ドアマンはレジ係より肌が黒く、レジ係は店長より黒かった」、肌の色による序列が雇用・教育・宗教・政治・交通に及んでいたこと、それが口に出されず「階級の話」と言い換えられていたこと、研究者が総督の書簡や新聞や小説から証拠を集めたこと
  • Rastafari — CDAMM……ラスタファリが1930年代のジャマイカで生まれたこと、名前がラス・タファリという即位前の名から来ていること、1930年11月2日の即位、「バビロン」が土地ではなく抑圧そのものを指すこと、髪を切らないことがレビ記の誓いから来ていること、ジャマイカが1962年まで英国支配で人口の九割以上が奴隷にされたアフリカ人の子孫であること
  • Mortimer Planno — Wikipedia……1966年4月21日にタラップを上って皇帝を群衆の前へ促したこと、ボブと同じ西キングストンの近所で黒人解放とエチオピア史の蔵書を持っていたこと、1966年末のボブの帰国後に関係が深まったこと、1968年6月のボブ初のラスタの録音に金を出したこと
  • Rasta Man Chant: How Bob Marley Became A Spiritual Figurehead — uDiscover Music……皇帝の来訪時にボブがデラウェアにいたこと、リタが掌の印を見て聖痕と受け取ったこと、その確信がボブを動かしたこと
  • Millicent Small (1946 – 2020) — The National Library of Jamaica……ミリー・スモールが砂糖農園の監督の娘で12人きょうだいの末っ子であること、ブラックウェルが1963年の暮れにイギリスへ連れて行ったこと、「My Boy Lollipop」が700万枚超であること、ジャマイカの音楽を初めて国際的な舞台に出したジャマイカ人歌手であること
  • Wail N Soul M — Wikipedia……1966年にボブらが作ったレーベルであること、1967年のバニーの収監、1968年のトッシュの逮捕、1968年後半のプレス工場の全焼
  • Do the Reggay — Wikipedia……「レゲエ」の語がレコードの題に初めて使われたのが1968年であること、もとが踊りの呼び名であったこと、トゥーツ・ヒバートによる語源
  • Attempted assassination of Bob Marley — Wikipedia……1976年12月3日午後8時半頃の銃撃、負傷した人と死者が出なかったこと「1曲だけやる」と約束して90分演奏したこと
  • Smile Jamaica Concert — Wikipedia……文化省が企画した無料コンサートであること、8万人が来たこと、リタが病院着のままコーラスに立ったこと、ステージに200人以上が上がり人間の盾になったこと、マンリーが総選挙を12月15日に前倒ししたこと、撃った者が逮捕されていないこと、ボブが16か月ナッソーとロンドンへ出たこと
  • One Love Peace Concert — Wikipedia……1978年4月22日・国立競技場・3万2千人以上、マソップとマーシャルが刑務所で思いついたこと、マソップがロンドンでボブを口説いたこと、出演16組、「Jammin’」の最中の呼びかけの言葉
  • How Bob Marley Used the ‘One Love’ Concert as a Gesture for Peace — HISTORY……マソップが1979年に警察の追跡を受け車内で約40発撃たれたこと、マーシャルが1980年にニューヨークのナイトクラブで殺されたこと
  • Jamaica — Hansard, House of Commons, 4 May 1938……1930年代のジャマイカの労働争議について、植民地大臣の答弁で死者4人・負傷9人・逮捕93人と報告されていること(本文では数字を使っていませんが、当時の島の状況の裏付けとして確認しました)
  • Foreign Relations of the United States, 1969–1976, Document 466……1976年6月の非常事態宣言と、当時アメリカがジャマイカの政治情勢を注視していたこと
  • Jamaican political conflict — Wikipedia……1976年の選挙までに100人以上が政治暴力で殺されたこと、1980年の死者数が1976年をはるかに上回ること

確かめられんかったことも、書いときます。

  • 「1964年2月、ジャマイカで1位」が、何を数えた1位なんか。当時のジャマイカには放送局が出しとった表があったところまでは分かりましたが、放送回数を数えたんか、レコード屋への聞き取りやったんかは取れませんでした。本文で「1位」と書きながら中身を説明できとりません。
  • ミリー・スモールの「My Boy Lollipop」の英国での順位。1位と書いとる資料と、2位と書いとる資料があります。どちらか決められんかったので、本文では順位を書かず「てっぺん近く」としました。売上の700万枚超は、両方の資料で一致しとります。
  • 銃撃の二日後にステージに立った理由を、本人が語った言葉。「世界を悪くしようとしてる連中は休まないのに、なぜ私が休める」という言葉が広く出回っとりますが、出どころが確認できませんでした。そのため使っとりません。
  • 肌が明るいほど有利やった島で、なぜボブが弾かれたんか。父方の家族が反対したことと、農村におったことは分かりますが、それで説明がつくかどうかは資料で取れませんでした。推測は書かんことにしました。

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