「I Shot the Sheriff」。
ボブ・マーリーが1973年に書いた曲です。ところが──この曲を世界中に届けたんは、ボブ・マーリーやありません。イギリス人のギタリストでした。
ほんで、その男が全米1位を取ったとき、ボブ・マーリーは、めちゃくちゃ腹を立てとります。
今日は、その話を。
原曲は、1973年のアルバム『Burnin’』
ボブ・マーリー・アンド・ザ・ウェイラーズの原曲です。1973年10月のアルバム『Burnin’』に入っとります。
ちなみにこの『Burnin’』、あの「Get Up, Stand Up」も入っとる一枚です。そしてもうひとつ、ピーター・トッシュとバニー・ウェイラーがおった、最後のアルバムでもあります。三人はこのあと、別々の道へ行きます。
世界に届く直前で、仲間が抜けていく。──そういう一枚なんですわ。
「ほんまは『警官を撃った』と言いたかった」
まず、この歌が何の歌なんか。ボブ本人の言葉として、こう伝えられとります。
ほんまは「警官を撃った(I shot the police)」と言いたかった。せやけど政府が騒ぐやろうから、代わりに「保安官を撃った」にした。中身は同じや。正義の話やねん。
つまり警察への抗議の歌です。「保安官」は、隠れ蓑やった。
歌のなかの保安官には、ジョン・ブラウンという名前がついとります。歌詞では、こう歌われます。
シェリフのジョン・ブラウンは、いつも俺を憎んどった。なんでかは知らん。俺が種を蒔くたびに、あいつは言うた。芽が出る前に殺せ、と。
この「種を蒔く」が何を指すんかは、歌のなかでは言うてません。言わへんから、効くんやと思います。
なお、この曲については別の説もあります。2012年に、当時の交際相手やった女性が「あれは避妊薬に反対して書いた歌で、『医師』を『保安官』に置き換えただけ」と語っとります。ただ、これは本人の証言やありません。本人が言うたことと、他人が言うたことは、分けて置いときます。
1974年、この曲をカバーしたエリック・クラプトン
さて、ここからが本題です。
翌1974年、この曲をカバーした男がおります。エリック・クラプトン。
聴き比べてもろたら分かると思うんですが、ずいぶん違います。原曲の張り詰めた感じが、少しゆるんで、艶が乗っとる。ええか悪いかやのうて、別の生きもんになっとります。
そして、これが1974年9月14日、ビルボードの全米1位になります。
持ってきたのはクラプトンやのうて、バンドのギタリスト
ここが、この話のいちばん妙なところです。
この曲を持ってきたんは、クラプトン本人やないんです。バンドのギタリスト、ジョージ・テリーという男が『Burnin’』を持ってきて、「この曲がめちゃくちゃええ」と聴かせた。
ほんで、クラプトンは渋りました。理由が記録に残っとります。
「原曲に対して、失礼になるんやないか」
敬意を払おうとして、遠慮したわけです。それをバンドのメンバーが説得して、ようやく録った。
その曲が、全米1位になりました。クラプトンの生涯で、唯一の全米1位です。
ちなみに、この「仲間が持ってきた曲を録ったら、売れてしもうた」は、12年後にもう一回起きとります。今度の原曲は、日本人が書いた曲でした。→ 出せんかった曲を、別の男が世に出した──「Behind the Mask」と、クラプトンが二度やったこと
18歳でプロになって、1967年にはロンドンの壁に「Clapton is God(クラプトンは神だ)」と落書きされるまでになった男が、それでも一度も届かんかった場所へ、いちばん気の進まんかった曲で届いてしもた。
ボブが怒ったのは、クラプトンにやない
この結果に、ボブは腹を立てとります。
ただし──ここ、大事なとこですが──クラプトン個人に怒ったんやありません。本人の言葉が残っとります。
ジャマイカの自分の家におっても、クラプトン版が一時間おきに流れてくる。それやのに、ウェイラーズの新曲はいっこもかからん。
同じ曲やのに、白人が歌うたら電波に乗って、自分らが歌うたら乗らへん。怒ったんは、そっちです。
ちなみに、この曲を回しとった側の話——ジャマイカのサウンドシステムが、どこへ渡って何になったんか——は、こちらに書きました。→ 誰も、作ろうとはしてなかった──ヒップホップが始まった日の話
当時の全米順位は、171位と1位
当時の二人の立ち位置を、数字で並べてみます。
ボブ・マーリー側。1973年4月に出した『Catch a Fire』は、今でこそ歴史的名盤とされとる一枚です(ローリング・ストーン誌の「オールタイム・ベスト500」で126位)。ところが当時は、全米で171位。イギリスのチャートには、かすりもしませんでした。
クラプトン側。ヤードバーズ、ブルースブレイカーズ、クリーム。クリームでは「Sunshine of Your Love」が全米5位、「White Room」が6位。そして壁には「Clapton is God」。
171位と、神です。勝負にすらなってません。
そら、腹も立ちますわ。
ついでに言うときます。この「全米1位」という順位は、当時ビルボードがレコード店とラジオ局に電話をかけて集めた数字でした。機械が売れた枚数を数えるようになるのは、ここから17年あとです。→ 順位は、冷蔵庫で買えました──ビルボードチャートの九十年
二人とも、1945年生まれの同い年
ここで、調べとって椅子から落ちそうになったことがあります。
| ボブ・マーリー | エリック・クラプトン | |
|---|---|---|
| 生まれ | 1945年2月6日/ジャマイカの山村ナイン・マイル | 1945年3月30日/イギリス・サリー州リプリー |
| 父 | イギリス系の白人。母より40ほど年上。5歳の頃に来なくなり、10歳のとき死去 | イギリスに駐留していた24歳のカナダ兵。クラプトンが生まれる前に去った |
| 母 | 出産時18歳 | 出産時16歳 |
| 育ち | 父の顔をほとんど知らない | 祖母夫婦を実の親やと思て育ち、実の母を姉やと思てた |
同じ1945年生まれ。生まれた日の差は、52日しかありません。
地球の反対側で、ほぼ同時に生まれとる。しかも二人とも、父親の顔を知らずに育っとります。
1974年9月14日、あの曲が全米1位になった日。ボブ・マーリー29歳、エリック・クラプトン29歳。
父のおらん男が書いた歌を、父のおらん男が歌うて、てっぺんを取った。──なんちゅう図でしょうか。
クラプトンも上り調子やない。3年ぶりの復帰作
ついでに言うときますと、このときのクラプトンも、上り調子やありません。
この曲が入っとるアルバム『461 Ocean Boulevard』は、3年ぶりのスタジオ復帰作でした。空白の理由はヘロイン依存です。抜けたあと、本人がこう振り返っとります。
3年を無駄にした。テレビを観て、体をなまらせただけやった。
ついでにもうひとつ。あの有名な「Layla」も、出た当初はコケとります。1970年11月に出たアルバムは全米16位止まり、イギリスではチャートインすらせず。シングルは1971年に全米51位。ヒットになったんは、2年後に再発売されてからです。
理由のひとつが、なかなか可笑しい。アルバムに「エリック・クラプトン」の名前が、裏ジャケットにしか載ってなかった。バンド名は「デレク・アンド・ザ・ドミノス」。買う人が、クラプトンの作品やと分からんかったんですわ。
神と呼ばれとった男の話とは思えまへんな。
世界が先に知ったのは、クラプトン版
最後に、ひとつだけ。
世界がボブ・マーリーを知るのは、この事件のあとです。
ボブ本人の名前が世界に届くのは、翌1975年。ロンドンのライシアム劇場で録ったライブ盤『Live!』──「No Woman, No Cry」が入っとる、あれからです。
つまり、順番はこうなります。
世界は、ボブ・マーリーを知る前に、ボブ・マーリーの曲を知った。しかも歌うとったんは、別の男やった。
クラプトン版は、たしかに原曲を覆い隠しました。けど同時に、それがボブ・マーリーへの入口にもなっとります。
これ、私の勝手な読みやありません。ボブ・マーリーの公式サイトに、はっきり書いてあります。「クラプトンのカバーは、ボブ・マーリーの国際的な知名度を著しく押し上げた」と。ローリング・ストーン誌も同じことを書いとります。「エリック・クラプトンのカバーがヒットするまで、より多くの聴き手がボブ・マーリーに気づき、探し始めることはなかった」と。
敬意を払おうとして遠慮した男が、渋々録った曲で、他人の歌を覆い隠して、そのまま他人の歌への扉も開けてしもた。
誰も、悪いことはしてません。ジョージ・テリーはええ曲を見つけただけ。クラプトンは失礼にならんように悩んだだけ。ボブは当たり前に怒っただけ。それでも、こうなる。
腹が立って当然やのに、単純に呪うこともできん。この、ややこしいまま終わらんところが、私はえらい好きです。
この「誰も悪いことをしとらん」は、もう一回出てきます。1970年、ビートルズが終わっていく年に、11歳の少年がチャートに三曲並べた話です。そこでも、名前が載らんかった人がおりました。→ 「もうええやないか」と「そこにおるよ」が、同じ年のチャートに並んどりました──1970年、ビートルズとジャクソン5
根に持っとった、というハリスンの証言
この二人、結局どうなったんやろと思て、調べてみました。
出てきたのは、ジョージ・ハリスンの発言でした。1987年、雑誌『ミュージシャン』のインタビューです。
エリックが唯一、私に対して根に持っとることがある。1970年代の後半、私が西海岸におったときにボブ・マーリーに会うたんやが、エリックはずっと、自分がその立場でありたかったと思とった。ボブ・マーリーに会いに行くとき、自分を連れて行かんかったことを、あいつは今でも許してくれん。
──クラプトンは、ボブ・マーリーに会いたかったんですわ。
自分が歌うたせいで相手を怒らせた曲。その相手に、会いたかった。ハリスンに置いていかれたことを、10年経っても根に持つくらいに。
ボブ・マーリーは1981年に、36歳で亡くなります。二人が会えたという記録は、見つけられませんでした。
ちなみに、この証言をしたジョージ・ハリスンとクラプトンのあいだにも、名前が載らんかったギターから始まる34年の話があります。→ ビートルズのレコードで、他人が弾くことはない──「While My Guitar Gently Weeps」とクラプトンの34年
──ボブ・マーリーの話は、まだ半分も出とりません。混血として両方から弾かれた子供時代のこと、下水溝の上に建った町のこと、銃で撃たれた二日後にステージに立った夜のこと。それはまた、次の機会に。
参考文献
この記事の事実は、公開されとる資料で一つずつ確かめました。何をどこで確かめたかを、あわせて書いときます。URLは変わることがあります。
- History — Bob Marley(公式サイト)……生年月日と生まれた村、父ノーヴァルの一族が結婚に反対したこと、最後に父に会うたのが5歳のとき、トレンチタウンが下水溝の上に建てられたこと、『Catch a Fire』が1973年4月・『Burnin’』が同年10月であること、クラプトンのカバーがボブの国際的知名度を著しく押し上げたこと
- About — Eric Clapton(公式サイト)……1945年3月30日にサリー州リプリーの祖父母の家で生まれたこと、祖父母ローズとジャックが実の子として育てたこと、1963年10月のヤードバーズ加入、1966年のクリーム結成、1974年の『461 Ocean Boulevard』での再登場
- Eric Clapton — Biography.com……実父が英国駐留中の24歳のカナダ兵であったこと、母パトリシアが出産時16歳であったこと、祖父母を実の親だと思って育ち、実の母を姉だと思っていたこと
- Eric Clapton’s “I Shot the Sheriff” hits #1 — HISTORY……クラプトン版が全米1位になった日付(1974年9月14日)
- On This Day in 1974, Eric Clapton Reluctantly Recorded the Only US No. 1 of His Career — American Songwriter……録音が1974年5月であること、クラプトン生涯唯一の全米1位であること、ボブの怒りがクラプトン個人にではなく業界の不均衡に向いていたこと(1985年の伝記による)
- Behind the Meaning of “I Shot the Sheriff” by Bob Marley — American Songwriter……「警官を撃ったと言いたかった/中身は同じ、正義の話や」というボブの言葉、およびエスター・アンダーソンの2012年の主張
- Bob Marley: Catch A Fire — The Real Story Behind The Album — uDiscover Music……『Catch a Fire』が全米171位、英国ではチャート入りせず、ローリング・ストーン誌の500選で126位であること
- Bob Marley: How He Changed the World — Rolling Stone……クラプトンのカバーがヒットするまで、より多くの聴き手がボブに気づき探し始めることはなかったという記述、トレンチタウンの住環境
- The Unusual History of Derek And The Dominos’ ‘Layla’ — uDiscover Music……アルバムが1970年11月9日発売で全米16位・英国チャート入りせず、シングルが1971年に全米51位、1972年の再発売で全米10位・全英7位になったこと
- Layla — Wikipedia……アルバムでクラプトンの名前が裏ジャケットにしか記載されていなかったこと
- 461 Ocean Boulevard — Wikipedia……3年の空白の理由と本人の振り返り、原曲を持ち込んだのがジョージ・テリーであること、クラプトンが「原曲に失礼になる」と乗り気でなかったこと
- Burnin’ — Wikipedia……『Burnin’』が1973年10月発売で、ピーター・トッシュとバニー・ウェイラーが在籍した最後のアルバムであること
- Eric Clapton — Wikipedia……1967年にイズリントンの壁に「Clapton is God」の落書きが現れたこと、クリームの「Sunshine of Your Love」全米5位・「White Room」全米6位
- George Harrison Said Eric Clapton Never Forgave Him for Not Taking Him to Meet Bob Marley……ジョージ・ハリスンの発言(1987年、ティモシー・ホワイトによる『ミュージシャン』誌のインタビュー)
※「世界を悪くしようとしてる連中は休まないのに、なぜ私が休める」というボブ・マーリーの言葉が有名ですが、出典を確認できなかったため、この記事では使っていません。

