スタジオに着いた男が最初に口にしたのは、仕事の話やありませんでした。
「なあダラス、マイケルに会えるか」
1995年。頼まれて来たのは、一曲にラップを入れることです。相手はマイケル・ジャクソン。それやのに、この男は入ってくるなり、会わせてくれと頼んどります。
ノトーリアスB.I.G.。二十二か、二十三。今日は、その日の話を。
スタジオに着いたビギーが最初に頼んだのは「マイケルに会えるか」
曲の名前は「This Time Around」。マイケルが1995年に出した二枚組『HIStory』に入っとります。
中身が、なかなかしんどい歌です。二人とも「有名になったせいで、しんどい」という話をしとります。マイケルが、身に覚えのないことで責められとると訴えて、ビギーがそれに応じる。1993年にマイケルの身に起きたことの、あとに作られた曲です。
その録音に呼ばれたビギーが、部屋に入って最初にしたのが、会わせてくれという頼みごとやった。録りに来たはずやのに、です。
デビュー作から1年で東海岸の顔になった、ブルックリンのラッパー
ノトーリアスB.I.G.。本名はクリストファー・ウォレス。1972年、ニューヨークのブルックリン生まれです。
母親はジャマイカから渡ってきた人で、保育の先生をしとりました。父親は溶接工で、ビギーが3歳になる3か月前に家を出ていっとります。
学校の成績は良かった。優等生やったのに、16歳で辞めとります。薬を売るほうが忙しくなったからです。売り始めたんは12歳のとき。1991年にはノースカロライナで捕まって、保釈されるまで9か月入っとりました。
ちなみに「ビッグ」という名前は、体格から来とります。高校のときで91キロありました。
その1991年に、DJと組んで初めてのデモテープを作っとります。それが人の手を渡って、1992年3月、雑誌『The Source』の新人紹介の欄に載った。それを読んだパフ・ダディが、会いに来ます。
1994年9月、デビュー作『Ready to Die』。そこから1年足らずで、東海岸の顔になっとります。
クラックを売って捕まってから、4年です。
呼んだのはマイケルやなくて、プロデューサーのダラス・オースティン
マイケルが「ビギーを呼べ」と言うたわけやないんです。
この曲を作っとったプロデューサーに、ダラス・オースティンという人がおります。ラップを一節入れたい、と考えたんはこの人でした。ほんで、ビギーの側の責任者やったパフ・ダディに、電話を一本かけとります。
パフの返事が、また早い。「今すぐ送る」
それだけです。マイケル・ジャクソンのレコードに人が一人入るまでの手続きが、電話一本と、この一言でした。
最初に挙がった名前は、ノーティ・バイ・ネイチャーのトリーチ
ほんで、ここがちょっと可笑しい。
オースティンが最初に口にした名前は、ビギーやありませんでした。ノーティ・バイ・ネイチャーというグループの、トリーチという男の名前が先に出とります。
つまり、あの日あのスタジオに立っとったのが、別の人間やった可能性がある、ということです。これから泣きかけることになる男は、第一候補ですらなかった。
ビギーが詞を書いたのは、着いた車の中
呼ばれたビギーは、用意した詞を持って来たわけやありません。
着いてから、車の中で曲を聴いて、その場で書いとります。
停まった車の中で、窓の外にはスタジオがあって、中にはマイケル・ジャクソンがおる。その状況で、書いた。ちょっと、想像してみてもらえますか。手が震えんかったんやろか、と思います。
ビギーのラップで使われたのは、1テイク目
震えとらんかったようです。
その場におった録音技師が、こう書いとります。1テイク目が終わったとき、自分とオースティンは顔を見合わせた。文句のつけようがなかったから、と。
念のため、もう何回か録っとります。ところが最後に使われたんは、いちばん最初のやつでした。
車の中で書いて、一発で決めた。ここまでは、腕のある男の話です。
マイケルに会えたビギーは、泣き出す寸前
ここから、話が変わります。
録り終えて、頼んどった対面がようやく実現します。ビギーは、泣き出す寸前まで行きました。
同じ人がこう書き足しとります。これがこの人にとってどれだけ大事なことやったか、見とって分かったと。
その年、この男の名前はアメリカ中に轟いとりました。夏には賞を取って、会場を沸かせとる側の人間です。それが、部屋に一人入ってきただけで、こうなった。
ビギーが頭を下げて伝えた、自分の人生とマイケルの音楽
そのうえで、ビギーは喋っとります。
言葉に詰まりながら、頭を下げながら、あなたの音楽が自分の人生にとってどれだけ大きかったかを、本人に向かって伝えた。
好きな人に会えたときに、いちばん言いにくいのがこれやと思うんです。「ファンです」までは言える。「あなたのおかげで、自分の人生はこうなりました」は、なかなか口から出てこん。言うたら最後、自分の側がまるごと差し出されてしまうからです。
それを、詰まりながら、言うた。
マイケルの返事は「もういっぺん聴かせて」
迎えた側の話もしときます。
じつはオースティンは、内心びくびくしとりました。ビギーの詞は、言葉が汚い。マイケル・ジャクソンが受け付けんのやないか、と。
ところが、返ってきたのはこれでした。
「もういっぺん聴かせて」
そのあと、こうも言うとります。
「これは完璧や。気に入った。これこそ、俺が言いたかったことや」
身に覚えのないことで責められとった男が、二十かそこら年下のラッパーの詞を聴いて、俺が言いたかったのはこれや、と言うたわけです。
フィラデルフィアから来た男への、礼と一枚の写真
マイケルはそのあと、礼を言うとります。
「わざわざフィラデルフィアから来てくれて、ありがとう」
ビギーがなんでフィラデルフィアから来たんかは、調べても分かりませんでした。分かるのは、けっこうな距離を移動して来とったということだけです。
ほんで最後に、ビギーが頼みごとをしとります。二つ目の頼みごとです。
写真を撮ってもらえませんか。
おずおずと、やったそうです。マイケルは、ええよ、と応じました。
マイケルが出ていったあと、突っ立ったままのビギー
マイケルが挨拶をして、部屋を出ていきます。
ビギーは、その場に突っ立ったままでした。
呆けとった、と書かれとります。何をするでもなく、立っとった。
録りは一発で決めた男が、相手が部屋を出た瞬間に、ただの一人のファンに戻っとる。
1995年8月、東と西が割れたソース・アワード
「This Time Around」がラジオで流れ出したんは、同じ年の11月21日です。
その3か月前、8月3日の晩に、ニューヨークでソース・アワードという賞の授賞式がありました。アメリカのヒップホップが、東と西に割れたのが、この晩です。
ビギーはそこで、『Ready to Die』で最優秀アルバムを取っとります。東側の代表として、会場のいちばん真ん中におった。
スタジオで頭を下げて、写真を頼んで、突っ立っとった男の話は、この晩より前のことでした。アルバムが世に出たんが、6月20日ですから。
1997年3月9日、24歳で撃たれたビギー
そこから先は、たぶんご存じのとおりです。
1997年3月9日、ビギーは撃たれて亡くなりました。24歳でした。
二枚目のアルバムが世に出る、その半月ほど前のことです。
2001年、マイケルのアルバム1曲目に、死んだビギーの声
最後に、もう一つだけ。
2001年10月30日、マイケルは『Invincible』というアルバムを出しました。生きとるうちに出した、最後の一枚です。
その1曲目に、ビギーの声が入っとります。
新しく録ったもんやありません。ビギーはもう、この世におりません。別のレコードに入っとったビギーのラップを、そのまま持ってきとります。撃たれてから、4年後です。
並べると、こうなります。
1995年、ビギーはマイケルの前で言葉に詰まった。2001年、今度はマイケルが、死んだビギーの声を、自分の最後の一枚の頭に置いた。
あの日、頭を下げられた側が、6年後、その男の声を拾いに行っとります。しかも、もうこの世におらん相手の声を。
昔の誰かがやったことを、次の誰かが拾て、鳴らし直す。その仕組みの、切ない使われ方やと思います。
──ビギーの話は、まだ入口です。ジャマイカから来た母親のこと、その母親が家でかけとったレゲエのこと、成績優秀やった少年が16歳で学校を捨てたこと。それはまた、次の機会に。
参考文献
この記事の事実は、公開されとる資料で一つずつ確かめました。何をどこで確かめたかを、あわせて書いときます。URLは変わることがあります。
- Rob, Biggie & Michael — Michael Jackson World Network……その場におった録音技師ロブ・ホフマンの証言。1テイク目で決まったこと、泣き出す寸前やったこと、頭を下げて自分の人生の話をしたこと、フィラデルフィアへの礼、写真を頼んだこと、マイケルが出たあと突っ立っとったこと
- Dallas Austin on Getting Biggie in the Studio with Michael Jackson — VladTV……プロデューサー本人が喋っとる映像そのもの。最初に挙がった名前がトリーチやったこと、パフ・ダディへの電話と「今すぐ送る」、車の中で詞を書いたこと、マイケルの反応
- This Time Around — Wikipedia……曲がラジオへ出た日付(1995年11月21日)、作詞のクレジットにビギーの本名が載っていること、プロデュース陣、曲の主題
- Invincible — Wikipedia……2001年10月30日発売、マイケルが生前に出した最後のアルバムであること、亡くなったあとのビギーが参加しとること
- You Can’t Stop the Reign — Wikipedia……「Unbreakable」に使われたビギーのラップが、もともとこの曲のアルバム版に入っとったものであること
- 1995 Source Awards — Wikipedia……1995年8月3日にニューヨークで開かれたこと、ビギーが最優秀アルバムを取ったこと、この晩に東西の対立が公然化したこと
- The Notorious B.I.G. — Wikipedia……生い立ちの節ぜんぶ。1972年5月21日にブルックリンで生まれたこと、母の出自と職業、父が家を出た時期、12歳での薬物売買、16歳での中退、あだ名の由来、1991年のノースカロライナでの逮捕と9か月の収監、デモテープ、『The Source』の新人欄、パフ・ダディとの出会い、そして1997年3月9日に24歳で亡くなったこと

